群馬県前橋市にある岩神稲荷神社の境内に鎮座する「岩神飛石」は、かつて浅間山が噴火したときに遠くまで飛来したという伝承をもつ、不思議な力を感じさせる石です。人が手を加えることなく、はるか昔からそこに在り続けてきたという事実は、まるでオーパーツのような神秘性を帯びています。しかしそれは、人工物としての“未知”ではなく、自然そのものが持つ“底知れぬ力”への畏怖と敬意を喚起させるものであり、古来より人々が何もせずにただ「神」として崇めてきた歴史にも感動を禁じ得ません。
この石が象徴するのは、人間の手が及ばない領域に対する畏れと憧れ、そして自然の圧倒的な存在感に対する静謐な信仰です。いつの時代も、自然の前では私たちはあまりにも小さく、かつ儚い存在ですが、それでも人々はこうした岩石や霊地を大切に守り、語り継ぎ、神として敬ってきました。そこには、自然の営みそのものに深い意義や神意を見いだす人間の姿があり、私たちの歴史や文化の根底を支える“自然へのまなざし”が感じられます。
一方で現代を生きる私たちは、日進月歩のテクノロジーに大きく依存する社会に身を置いています。便利さと効率を求めるあまり、かつて先人たちが当たり前に抱いていた自然への畏敬や感謝の念を、どこかに置き忘れてしまったのではないでしょうか。進歩は私たちの生活を豊かにする一方で、自然との距離感や調和を見失わせることもあります。そんな時代にあってこそ、岩神飛石のように人が介在せずとも崇められ、守られてきたものを改めて見つめ直すことが必要なのかもしれません。そこにある“不変の神秘”を再認識することで、私たちは忘れかけていた自然とのつながりを思い出し、自分自身の未来像をもう一度見つめ直すきっかけを得られるのではないでしょうか。
このような思いを込めて「もしくは」という言葉に立ち返ると、それは今と昔の隔たりを考察しつつ、人々が失いかけたものを再び思い出していく行為を指しているようにも感じられます。暮らしの中に埋もれてしまった大切な記憶や感覚を呼び覚まし、自然や自分自身との距離感をもう一度問い直す。その先に見えてくる“明日の未来”を思い描くことは、いつか自分自身の望んだ姿へと近づく一歩につながるはずです。
なお、ここで語られる「鼻」というモチーフは、人類のすべてを象徴する存在として描かれています。鼻は呼吸を司り、生命の根源でもある空気を取り込み、私たちの体に行き渡らせます。その一方で、人間らしさの象徴であり、顔の中でもっとも目立つ器官です。まさに自然と人、そして未来を思索する私たち自身の姿が、呼吸する人間としての根本にある“鼻”によって示唆されているのかもしれません。
こうした様々な思考や感情を喚起してくれる岩神飛石と、それを抱く神社の存在は、テクノロジーが発達する現代にあってもなお、私たちが自然とどのように向き合い、いかに共生していけるのかを問い続ける貴重なシンボルといえます。そこには、長い時を経ても色あせることのない畏敬の念と、未来を創造するにあたって欠かせない想像力の源泉が宿っていると思っています。